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一応会社員の新聞記者として一言申し上げますと、まずは購読者(紙の購読、カナロコ有料会員)のご意見を大切にしたいと思います。よろしくお願いします🤲
ここ数日、さまざまな方々から複数のSNSを通じてご意見をいただいていますが、三者三様ですので一つ一つにはお返事できませんし、する予定はありません。ぜひ路上や街角やその他の取材現場や、はたまた私の拠点エリアなど、ぜひ直接お会いした際にお話ししましょう。異なる意見があって良いと思っていますし、聞く仕事をしている以上、直接会って話を聞くことを重視したいと思います。対話になる以前に会話から始めましょう。よろしくお願いします🙇
例えばだ。デモをする自由は維持するが、ヘイトデモを行う自由はない。私個人としてはそうあるべきだと思う。しかし、集会・結社の自由は認められている。極右政党参政党の政治活動も認められている。では現実に起きるヘイトや差別にどう対処するのか。2016年のヘイトスピーチ解消法も実は、とあるリベラル野党でさえ表現の自由を毀損するという点で当初は微妙な態度をとっていたのだ。しかし非対称性において生じる人権侵害こそ課題解決すべきであるという点において成立した。ただこの法整備は国民や行政に対する努力義務しか課されていなかった。解消法によって川崎市は罰則付きの条例を作ることに前進した。
それがどんな文脈であれ、自由が認められているのがこの社会である。憲法が保障するからだ。もしこの憲法が規定する「自由」に瑕疵があるなら憲法改正を行うか、または条例や法整備を行えば良い。しかし、それではつまり自由を制限することにしかならない。倫理観、モラルというものでこの社会における表現はある一定程度(これも十分ではないが)整備され、それも条例や法整備などによって制限やゾーニングがなされており、見ない自由などがある。もちろん差別や実際の暴力は否定しなければならないし許してはならないが、この前提になっているのが非対称性であることは意識したい。
横浜の米軍施設で米兵が市街地に向けて小銃を向けていたことが分かりました。今日の神奈川新聞が報じています。銃口は観光地でもある「大さん橋」などに向けられていました。軍事組織が本物の銃を私たち市民生活の場に向けるこの異様さ、権力性に憤りを覚えます。昨年は横須賀の反戦パレードの最中、米兵が自動小銃を携え、イエローラインを超えて基地外の公道上で警備を行う事案が起きました。 ぜひ抗議の声を広げてください。 📰横浜ノース・ドックで複数米兵、市街地に小銃構える 団体抗議「強い怒り」 | カナロコ by 神奈川新聞 www.kanaloco.jp/news/social/...
川崎モデルのように国レベルでの罰則規定を確実に設ける包括的差別禁止法が必要であることは言うまでもない。差別や排外主義が跋扈する社会で現実的に抑止力となっているのはヘイトに対する対抗行動、すなわちカウンターである。私は苛烈を極めた10年代半ばかえあヘイトの現場に足を運び、シットインに加勢するように撮影してきた。レイシストの行手を身体的に阻む態勢で撮影もした。現場にいるマイノリティが被害に巻き込まれることを防ぐためにレイシストと当事者の間に割って入り、レイシストに至近距離でカメラを向けた。すなわちシュート(射撃)だ。行為はレイシストから見れば「暴力的」とされるが、非暴力であることは明確であった。
国旗を燃やすことも、銃を模した玩具を持つことも、この社会では許されている。どちらも暴力ではないが「暴力的」という理由による“検閲”によって、ますます表現の自由が毀損されていく可能性が生じる。しかし、この「自由」の行使に対して不快感や嫌悪感を示すことも許されている。自由に議論が起きれば良い。私の意見に異議申し立てをすることも自由なのだ。だからこそ、自由というものは意識的に維持させなければ脆く、失われることを意識したい。現実に生じる圧倒的な権力による殺戮と並列に扱ったり、相対化することはできない。そして因果関係のない事象を結びつけることもできない。あくまで「表現の自由」という観点において考えたい。