それがどんな文脈であれ、自由が認められているのがこの社会である。憲法が保障するからだ。もしこの憲法が規定する「自由」に瑕疵があるなら憲法改正を行うか、または条例や法整備を行えば良い。しかし、それではつまり自由を制限することにしかならない。倫理観、モラルというものでこの社会における表現はある一定程度(これも十分ではないが)整備され、それも条例や法整備などによって制限やゾーニングがなされており、見ない自由などがある。もちろん差別や実際の暴力は否定しなければならないし許してはならないが、この前提になっているのが非対称性であることは意識したい。
矢部真太/神奈川新聞記者
国旗を燃やすことも、銃を模した玩具を持つことも、この社会では許されている。どちらも暴力ではないが「暴力的」という理由による“検閲”によって、ますます表現の自由が毀損されていく可能性が生じる。しかし、この「自由」の行使に対して不快感や嫌悪感を示すことも許されている。自由に議論が起きれば良い。私の意見に異議申し立てをすることも自由なのだ。だからこそ、自由というものは意識的に維持させなければ脆く、失われることを意識したい。現実に生じる圧倒的な権力による殺戮と並列に扱ったり、相対化することはできない。そして因果関係のない事象を結びつけることもできない。あくまで「表現の自由」という観点において考えたい。