川崎モデルのように国レベルでの罰則規定を確実に設ける包括的差別禁止法が必要であることは言うまでもない。差別や排外主義が跋扈する社会で現実的に抑止力となっているのはヘイトに対する対抗行動、すなわちカウンターである。私は苛烈を極めた10年代半ばかえあヘイトの現場に足を運び、シットインに加勢するように撮影してきた。レイシストの行手を身体的に阻む態勢で撮影もした。現場にいるマイノリティが被害に巻き込まれることを防ぐためにレイシストと当事者の間に割って入り、レイシストに至近距離でカメラを向けた。すなわちシュート(射撃)だ。行為はレイシストから見れば「暴力的」とされるが、非暴力であることは明確であった。
矢部真太/神奈川新聞記者
例えばだ。デモをする自由は維持するが、ヘイトデモを行う自由はない。私個人としてはそうあるべきだと思う。しかし、集会・結社の自由は認められている。極右政党参政党の政治活動も認められている。では現実に起きるヘイトや差別にどう対処するのか。2016年のヘイトスピーチ解消法も実は、とあるリベラル野党でさえ表現の自由を毀損するという点で当初は微妙な態度をとっていたのだ。しかし非対称性において生じる人権侵害こそ課題解決すべきであるという点において成立した。ただこの法整備は国民や行政に対する努力義務しか課されていなかった。解消法によって川崎市は罰則付きの条例を作ることに前進した。
矢部真太/神奈川新聞記者
国旗を燃やすことも、銃を模した玩具を持つことも、この社会では許されている。どちらも暴力ではないが「暴力的」という理由による“検閲”によって、ますます表現の自由が毀損されていく可能性が生じる。しかし、この「自由」の行使に対して不快感や嫌悪感を示すことも許されている。自由に議論が起きれば良い。私の意見に異議申し立てをすることも自由なのだ。だからこそ、自由というものは意識的に維持させなければ脆く、失われることを意識したい。現実に生じる圧倒的な権力による殺戮と並列に扱ったり、相対化することはできない。そして因果関係のない事象を結びつけることもできない。あくまで「表現の自由」という観点において考えたい。