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書いている途中、新たな登場人物が突然出てくることがある。これは、最初に構想を練っているときに、そういう人物が必要だとは思わなかったからだが、だからこそ、結構重要な役割を持って出てくることが多い。その新登場した人物が最初に話す会話文を書くときは緊張する。この人はどんな話し方をするのか、実際に書いてみるまでわからないからだ。今から書くこの会話文で、この人物の性格や人間性が確定するのだなという緊張感のため、何日か筆が止まっていた。今日ようやくその人が喋り始めた。面白くなりそうな気がする。うまくいって欲しい。
海亀湾館長
一人称で書いていた小説を、三人称一元視点で書き直すとき、主人公の一人称の部分を、名前や人称代名詞にただ置換すればOKという単純なものではないはずで、文章も三人称に相応しいように修正する必要があると思うのだが、一人称の書き方で書かれた三人称の文章を見かけることがあり、自分もそうなのではないかと心配になった。視点の場所が主人公の内部にあるのと、外部にあるのとでは、たとえわずかでも違いが生まれると思う。
noteは横書きで表示されるので、note用の小説はテキストエディタに横書きで書いている。
公募用は縦書きに印刷するので、以前は縦書きができる別のテキストエディタに打ち込んでいた。でも横書きに慣れてしまったことや、外出時にスマホのメモアプリ(横書き)で執筆をすることもあるので、今は何でも横書きで打ち込むようになっている。横書きで書いた作品を縦書きに表示すると、強烈な違和感が生じて、あれ? と思うことがあったが、最近はそんなふうに思わなくなった。鈍感になったのだろうか。単に慣れただけのような気もする。
今日でようやく四万字を超えた、と思って一瞬喜んだのだが、改行も一文字としてカウントする設定になっていたため、全然四万字を超えていなかった。先月100枚を超えたというのに、あれからなかなか文字が埋まらない。四万字が遠く感じる。
ただ、次に書こうとしている場面は見えている。それだけが救いだ。
公募の際、筆歴を書くことが求められるようなので、筆歴とはなんだろう、と疑問に思い、調べた。筆歴とは応募や受賞や掲載などの実績のことだとわかった。調べてよかった。一瞬、小説を書き始めたときから現在までの年数のことかと思って焦ったので。
時系列に沿って書いていたものから、少し時間を早めた地点まで進み、そこから回想気味に語りをシフトさせて、元の地点に戻って進行する、というのをやっている。この書き方がうまくいくかわからない。だが試す価値はありそうだ。ドキドキする。
一冊ずつ丁寧に読んでいくのが従来の自分の読書スタイルなのだが、読みたい本が、というか読んでいる本が渋滞してきて、思いもよらず併読が始まっている。器用ではないので、一度に何冊も手を出して読むのは得意ではないが、集中力が高まる効果はあるかも知れない。
今書いている小説はAIには絶対に書けない、と思って書いている。たぶん、書けないはず……。問題は、それを判定する確かな方法がないということかも知れない。不安だ。
小説を書いていて、よくある名称なので何気なく使ったら、それが登録商標だったということがある。それによってイメージが固定されるのなら小説に使うのは避けようかなという気持ちも働くが、あまりに生活に溶け込んでいると、その名称を使わない方が不自然に思われる場合もあるのではないか。
この間、ポリバケツが登録商標だったのを知ってそんなことを考えた。プラスチック製の青いバケツ、と書き直すのもどうなのか。
悪いイメージを持たれる使い方をするわけでもなく、なおかつ、ほとんど一般名称化しているものであるなら、使わせて頂こうかなと最近は考えている。
海亀湾館長
海亀湾館長
海亀湾館長
十八歳のときに「羊をめぐる冒険」を読んだのがわたしのはじめての村上春樹で、たいへん衝撃を受けた。どういう衝撃だったかというと、自分が今まで読んできた小説とまるで読後感が違っていたから。ざっくりした言い方になるが、オチらしいオチがなくても小説は終えることができるのか! ということをわたしは村上春樹の小説を読んではじめて知った。これは現代の純文学にはじめて触れたことによる、自分の中でも革命的な出来事だった。物語は閉じられず、読んだら終わり、とならないで、いつまでも心の中に手触りが残る小説。この印象はのちにわたしが夢中になる純文学全般に言えることで、自分のこの嗜好はこの先も続いていくと思っている。
海亀湾館長
海亀湾館長
海亀湾館長
海亀湾館長
海亀湾館長
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